昭和四十六年四月二十九日  朝の御理解


X御理解第二節 「先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは
神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてると
いうことがない」


 限りないおかげが頂けて行けれる、その大元というものは、「神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る」と教えられる。神徳は信心をすれば誰でも受けられるという、そういう信心を頂くことによって、御神徳を嫌が上にも頂いて行くことが出来るのです。只信心すると、拝みよります、参りよりますだけではいけない。神徳は信心をすれば誰でも受ける。
 神徳を受けさせて頂ける程しの信心とはどういうことかというと、沢山の御道の信者、信奉者の中には、それこそ沢山の数限りない信者、信奉者がおりますけど、誰でも受けられるという程しの神徳を受けていっておるとは思われない。あの世にも持って行き、この世にも残していけれる程しのものを頂いている者はごく稀である。
 ですから、普通、参ります、拝みますという信心じゃないことを先ずわからなけりゃならん。そして信心ということは信ずる心、いよいよ神様を深く広く信じていく信心。「神を信ずる氏子は多いが、神から信ぜられる氏子は少ない」と仰せられる。神を信ずる氏子は多いと。実を言うたら神を信ずる氏子が実は少ない。先ず神様を信じておると、本当の意味で信じておるという人ですら少ないですから、信心とは、いよいよ神様を信ずることの出来れるおかげ。
 又の御理解「金を杖につけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と仰せられる。これは神様を信じ切ってるとか、信じてるという杖でなければ役に立ちません。楽じゃと仰せられるのは、神様を信じてるからこそ楽なのです。不要はない心配はないということになってくるのです。だから楽なのです。
 金がある人は、只金に頼ってそれこそ地獄の沙汰も金次第といったような思い方をしておる人が世間にはいっぱいです。成程地獄の沙汰も金次第かも知れませんけどね、極楽の沙汰はそんな訳には参りません。如何に金を山程積んだったって、そんならあんたは沢山お金を持っているなら極楽に行くという訳には行きません。けれども極楽の沙汰は金では行けないことがわかります。
 なら現世に於いてなら、お金はどれだけあるやらわかりません、けれども心の上にも又様々な中にも窮屈な生活、苦しい生活をしている人がどれだけあるかわかりません。金でどうにかなるなら極楽にいけば良い。私程幸せなものはあるまい、私のように幸福なものはあるまいといえる程しのおかげを頂きゃよいだけ。けどドッコイむしろ金が仇といわれるようなことにすらなってくるのですから。
だから極楽の沙汰は金次第という訳には参りません。
 そこで、なら、金や木や竹では曲がったり折れたりするのでございますから、神を杖につけば楽じゃとおっしゃる。ですから信心しとりますというだけで杖にはならんことはないでしょうかね。けれども曲がりもしなければ折れもしない程しの神様、そういう神様を頂いた時こそ、初めて神を杖についとるということが言えてくる。
いわゆる、神を杖につけば楽じゃと仰せられる。楽なんである。  神様を信じているからこそ、根性の悪いことを言わんで済む、こすい、ずるいことを言わんで済む、神様を信じ切ってるから、美しゅう清うこの世を送らせて頂かねば馬鹿らしいことになる。小さい我情我欲で満足することの空しさということがわかってくる。そこから限りないおかげ、神様の御神徳というても、いわゆる神様の御信用というても、それがいよいよ絶対なもの、私どもが神様を信ずるというてもそうである。
 それは信じてない、信心しているからには信じているからこそ、信じているわけだけれども、不安もあれば心配もあるところに、絶対のものではないことがわかるように、その神様をいよいよ絶対ものにしていくところに信心がある。日々の精心がまたあるわけであります。「信心すれば誰でも受ける事が出来るのが神徳。」とまで教えておられますから、その神徳の受けられる信心、それは只参っとります、拝んどります、話を聞いとります、頂いとりますだけではいけんのです。神徳の受けられる信心。
 昨日は親教会の春の御大祭で、ここからも沢山おかげを頂きました。お説教が例によって福岡の杉尾先生の御説教でございました。
御理解三節の御理解下さいました。それで長時間にわたっての話でしたが、一生懸命頂いとりましたけど、どうもこちらの頂き心がお粗末だったんでしょうね。何にも残るものがなかったなあ今日はと思うた。
 椅子に腰を掛けながら、御説教台の前でお話をなさって、もうお話も終りました。皆は、合楽から行っている人は皆こんなふうで雑記帳を持っていって色々書き。もう皆話が済みましたから、済んだようだから皆のカバンの中へ雑記帳を納めた先に、もうお話もこれで最後だというので、その御説教台の前から立たれまして、やおら最後に言われた一言が私の心にそれこそビックリする程の思いで、心に染み込んでくるような感じでした。
 最後のというか、しめくくりという、もう立たれてからです、だから皆そこらへんを頂き損ねたんじゃないかと。まあ、私がそこを頂いたのは、お参りになった方は記憶、「ああ、ほんにそげなことおっしゃった」と言うことだと思うのですけどね。こういうことをおっしゃったんですね、だから私はあわてて控えさしてもらいました。「神様を頂き直す生活」ということであります。
 神様を頂き直す生活、御徳を受けさせて頂けれる生活とはね、信心生活とはね、神様を頂き直していく生活なのです、日々。あなたは段々お付き合いしていく程しに、あなたというものがわかったという時に、あなたを頂き直すとなりますね、人間同志の場合であって。日々信心させて頂いておる、拝ませて頂いておる、日々の信心生活、信心生活をさして頂いておる、おりますということはね、もう厳密に言うたら日々なんです。日々頂き直していけれる程しの神様でなからねばいけない。これはもう絶対の信心が向上している印なのですから、神様がいよいよ絶対なものになって見えます。神様も又、絶対の氏子として御取り立て下さるのだろう、御信用下さるだろうということになるのです。
 私はここを頂いた時に、もう今日の長時間にわたって話されました。そのことをもうこの一言のために、今日あったと言うても良いくらいのものを感じました。神様はござるやらござらんやらわからんという時代から「ああ、神様ちゃござるとわかる時代、もっとも神様は十くらいの力かと思いよったら、五十くらいの力をわかるようになり、いやこげなことは神様にお願い出来ん、ここは人間の働きの場だ、神様の働き場でないといったようなね。という段々時代から、もうそれこそ千も万もじゃない、もう限りなく神様を信じさせてもらう、信じ切らせてもらうというおかげを一ぺんに頂かせて頂くほかない。
 日々の信心体験と信心の修行によって、日々が新たな神様を頂き直していくということ、天地金乃神様が変わりなさるはすがないのだけれど、その神様の御働きの世界というものを、私どもが体験によって、いわゆる体験づけて行く神様。長年信心させて頂いておるけれども、この世では金光様だけれども、あの世では仏様という人がどの位あるかわかりませんものね。
 絶対のものになって来れば来る程です、改心せねばおられません。金光大神のお取次によって、天地金乃神様をそれこそ、生きても死んでも天地金乃神様のおかげによらなければということがわかってくれば来る程そうしなければおれません。それが信心なのです。
改心しておるから絶対なものを頂いてあるかというと、それでもまだまだ限りがない。いわゆる真実から真実を求めていくということですから、より本当なことを頂いてもらうと言うことになると、いわゆる過去のことは、それはもう空言ということになるのです。真あることなしなのです。
 皆さんどうでしょう、昨日杉尾先生の理路整然とした第三節の話のありましたが、どこをどういうふうに頂かれたでしょうか。私はとうとう頂き切らなかった。そして、最後の締めくくりの挨拶に、ここんところ、おそらく自分も意識しておっしゃったのではないと思います。いわゆる、神ながらの神の声と頂きました。「信心とは神様を頂き直す生活」、いつも私どもが同じ神様であってはならないと。
 「姓は天地、名は金乃神」いつかそんな御教えを頂いた。だから神様というお方は、いわゆる天地金乃神、「姓は天地、名は金乃神」それだけなのです。金光様の信心は金光大神によって、天地金乃神様と拝まして頂く、拝む対象は天地金乃神様だと聞いたら、そこまではすぐわかる。けれども天地金乃神という神様を頂きだしたらもう日々頂き直さにゃおられん程しに、深まり広うなって来るのです。
 そこでです、私どもが日々神様を頂き直す生活とはどういうことかと申しますとです、いよいよ自分がわかっていくということになります。自分自身がいよいよ掘り下げられて行くということになります。どういうことになりますでしょうか。自分がいよいよ掘り下げられていくとです、神様がいよいよ高いお方になってくるわけです。そういうことになりましょうが。
 自分が段々段々十メートル、百メートルというように、十メートルの神様じゃった神様が、自分が百メートル掘り下げられましたらもう神様は百米の神様になられるのです。神様を日々、成程頂き直すことが出来ることがわかります。またそれが信心だと思います。
身は生神金光大神とまで天地金乃神様から御称号を頂かれた。御神格を頂かれた。金光様が自分に帰られた時には、何も知らない無学の百姓になっとられます。身は天地金乃神と同根とまで称えられる程しの御神徳・御神格を受けられてもです、ひとたび自分自身に帰られた時には、いわゆる百姓文治とでも申しましょうか、無学の百姓で何もわからんというところに、障子一枚がままならぬと、人の身である程しの自分の無力さ加減というものをそこに発見しとられます。
 そこで、それこそ稚児・赤子のような、私は心になって神様にお縋りするより外にないという、絶対に縋る、頼らせてもらう信心、そういう信心がです、「神様を杖につけば楽じゃ」とおっしゃるのはそのことだと思う。不安がない、心配がないというところまでお互いの信心を一つ深めていきたいと思う。深める、その深めるということがです、そのまま神様をいよいよ高く評価して行くことが出来る。神様が、もう私どもの前に日々神様の様相というものを変わった面から拝まして頂くことが出来る。
 そこで、いよいよ自分を掘り下げるということを申しましたが、なら私どもはどのような場合に掘り下げることが出来るのであろうか。私はいつも自分の帳場の楼に、いわゆる座右銘ですね、これは私が、考え出した言葉なんですが、「節を大切にしていく人は伸びる」と書いていつも貼っておりました。それを厳密に考えておりますと、一日の中にでも何回か節があるような感じが致します。一日の中にも、ああいい節であったなと思う。やはり一月があります。
一月でありました。これを一年になりますと、ははーあれが一年の中の大きな節じゃったなあということになります。
 これを自分の五十年の人生を振り返ってみるとですね、あー何歳の時、何十歳の時、ああいう節を乗り越えさして頂いた。神様のおかげ、信心さして頂いとかんと乗り越えられない程しの節だったなあと思い当らせられることがいくらもございます。皆さんそうでしょう、そういう意味でです、私どもがいよいよ自分をわからせて貰うという、いわば絶好のチャンスとでも申しましょうかね。
 私はね、そういう節に直面した時だと思いますね。その節を大切にする。それを合掌して受けていく、その節を元気な心で受けぬいていく。節から芽がでる、その節の度に自分自身が掘り下げられる。自分自身がよくわかる。節の度に神様の働きを、より如実に表して行くことが出来る。神様を見直していくことが出来る。成程節の度に伸びるんだなあとこうわかります。節を大切にする。節を合掌して受けていく、節を元気な心で乗り切っていく。
 例えば竹の節でもそうでしょうが、それこそ竹を二つに割る時にそれこそ万身の力をポーンと持っていくと、ポンポンポンポンと節が割れていくでしょう。いうように節を乗り越える時には、元気な心がなからなければ乗り越えられません。節のにきで行ったり来たりしとる。それではいつまでたっても節から芽が出ることはありません。
 ならそれを具体的に申しますと、その節というか難儀というかその時にです、いよいよ自分の無力さ加減というか、自分のいわば改まらなければならない短所をです、次々とわからせて頂くということ。だから節は改まなければ乗り切れないとも言えるわけですね、大きな節などは。
 そこからね、神様を日々、まあ厳密に言えばです、けれども私どもは自分で、ああこれは大きな節だなと感じらせて頂くたびに、神様を頂き直してチャンスというものが恵まれるわけですから、それを積み上げた上にも積み上げていくという押しやり方。そういう信心は、神徳は信心をすれば誰でも受けられるという、神徳を受けていけれる。誰でも受けていけれるという、そういう生き方というのが、そういう姿勢にならせられる時、御神徳を受けていく、神様を絶対のものとしていよいよ信心していけれるということは、神様からまた絶対の氏子として信用して頂けるということにもなれるのです。
 「神徳とは神様の御信用だ」と仰せられてある、その神様の御信用、信じ信じられる中になる、神様と氏子とがそういう神様をです、私どもは、日々外さずに頂いておくことが、神を杖についている時でありますから、神を杖につけば楽じゃ、不安はない、心配はない。それがもし目の前が真暗になるようなことが起こっても、どっこいと受けていていけれる。そしてここを乗り越えたら、また新たな世界、新たな力が受けられるんだ、新たな世界が開けて来るんだと思うたら、その節がまた楽しいということになるのです。
 今日は私、御理解第二節から、昨日私( )の教会長先生から頂いたお説教の、どうしても、それはもう大変学問をしたお方ですから、もう理路整然と御理解第三節をお説きになりましたけど、どうも自分の信心の中にピシッと頂けれるものがなかった。勿論こちらが頂き心がお粗末でございましたでしょうけども、それでも何か頂かなければ、私はお話を頂く時でもね。それでなからねばいかんのです。
 今日は何も頂かんで帰ってはいかんです、そうすると神様が何かをどういう話の端にからでも、ああ、今日のここが頂きどころというものが必ず下さるもんです。もういよいよ今日は駄目かなと。皆が雑記帳しまってしまう頃、先生など、最後の挨拶に立ち上がられた時、おそらくご自身も気付かずにおっしゃたであろうと思われるような、その挨拶言葉の中に、「信心生活とは神様を頂き直す生活」という。それが私の心の中に響いてきた。
 だから今日は御理解の第二節からは、私どもがどうぞ日々そこを、私はまた節を感じる時、または頂き直すために、いよいよ自分というものが広く深く掘り下げられていく度に、神様をそこに見直すことが出来る、見直していくことの出来れることのために、今日はお話を皆さんに聞いて頂いたわけですね。
 ですから、私どもが頂いている神様がです、日々より力強い、より素晴らしい神様に頂き直すことが出来る程しの信心修行をさせて頂きたいものと思いますね。
どうぞ。